こんにちは、Saoです。
アニメ「機動戦士ガンダム」の主人公、アムロ・レイのモノマネで、「親父にもぶたれたことないのに!」のこの名ゼリフの物まねで大ブレイクしたピン芸人の若井おさむさん(48)が今年1月、YouTube「吉本中尾班YouTube劇場×街録ch」で語った壮絶な人生が話題となり注目を集めています。
これが、想像を絶する生活で、本当にこんな親がいるのかと、YouTube「吉本中尾班YouTube劇場×街録ch」を見て、言葉を失いました。
当時、テレビでネタを披露している若井さんをみて、そんな辛い経験をしていたとは思えない笑顔と芸風で、「うまいな~!」なんてのんきに見ていました。
今回は、若井おさむさんの壮絶過ぎる生い立ちと、母親をどうしたら殺せるかと日々考えていたのに、殺さずに済んだ訳や、幸せな結婚をしたのに、なで離婚に至ったのか、現在はどんな仕事をされているのか、をまとめてみました。
YouTube「吉本中尾班YouTube劇場×街録ch」も載せてありますので、ご覧下さい。
若井おさむさんの壮絶過ぎる生い立ち
若井修さんは、両親と4歳上の兄との4人家族で、京都府京都市で生まれ育ちます。
幼い頃から両親と兄「家族全員」から家庭内暴力による虐待を受けて育ってきました。
この文章だけ見れば、ほんの1行で終わりますが、皆さん考えてください!家庭内暴力の虐待が、幼いころから若井さんが大人になって実家を出るまで続いているんですよ!
考えられない話です!!!!!
最初の記憶は幼稚園のときです。おもらしをした僕を怒鳴りつけながら、マッチで僕のお尻に火をつける母。ビンタされ、グーでどつかれ、「ずっと立っとけ」とトイレにとじこめられました。父は仕事ばかりで、家の中で顔を合わせることがあまりなかったんやけど、やはり暴力をふるいましたね。
若井さんの母親は、4歳年上の兄を可愛がっていたといいます。
親から、物を買ってもらったことが無く、お小遣いも、もらったことが無いという若井さん。
兄は毎週お小遣いがもらえ、若井さんには「あんたはアカン!」と言われ、もらえない。
しかし、まだ小学生だった若井さんは、世の中全部がそうなんだ(長男が大事にされる)と思っていたそうです。
しかし次第に「死にたい」「なんで僕は生きているんだろう」と思うようになったといいます。
小学生のころから「死にたい」「僕なんか生まれてこなければよかったんや」と思いながら生きてきました。僕は、家族から暴力を受けながら育ったんです。母は兄にばかり愛情を注ぎ、僕は何をしても怒られた。
学校の先生も味方になってはくれませんでしたね。家で棒みたいのでバーンとつつかれてケガをしてしまい、学校でも痛くて泣いていたことがあるんです。そんな僕を見て先生が、「コケたくらいで泣かんときや」と一言。明らかにコケてできた傷ではないのに。
その後も家族からの暴力や虐待は続きます・・・。
- 「何もしてないのにどつかれる」
- 「食事の時、食べ方が気に入らないということでシバかれる」
だいぶあとになってから、「僕は虐待されてたんや」と気づくんですけど、当時はこの状態がおかしいとは思ってなかった。自分が悪いんやから、しばかれても仕方がない。子どもってどこのうちもこういうもんなんや、と考えて。近所に母方のおじいちゃん、おばあちゃんが住んでいたのですが、家でそんな目にあっているということは、一言も喋らなかった。
心の拠り所は「ガンダム」
中学生になると、より母親と兄からの暴力・虐待がひどくなっていきます。
兄からもやられっぱなしでした。兄は優秀だったんやけど、僕はあまり勉強しなかった。それで、中2のときかな、通知表の成績がオール3くらいだったんです。そしたらそれを見た兄に怒鳴られ、しばかれて。
そして、それまで子育てに関心が無かった父親が、若井さんを不憫に思ったのか、かばってくれたことがあったそうです。しかし、その瞬間母親は、離婚すると言い出したそうです。
それから「母・兄」VS「父・若井さん」のような関係になったそうですが、そうは言っても、小さいころから父親からも暴力を受けていた若井さんは、心から父親を許し信頼することは、できなかったそうです。
そして、こんな構図になると母親からは「あんたのせいで家族がこんな問題(不仲)になってる!」と責められたそう。
あまりに僕に対して厳しい母を見かねたのか、父が「おさむがかわいそうやないか」と一度だけ味方してくれたことがありました。そしたら母は激怒して、以来両親はめちゃくちゃ不仲になってしまった。
全ての責任をなすり付ける母親。もう、一体どういう母親なんでしょうか?理解が出来ない。
そんな辛い生活の中で、若井さんの心のよりどころは「ガンダム」だったそうです。
お小遣いをもらっていた兄はガンダムを買うことが出来ましたが、若井さんはテレビに映るガンダムを観ることしかできず、かぶりつきで観ていたそうです。なんとも、切なくなります、本当に。
友達はみんなガンプラを持って遊んでいましたが、お小遣いも、物も買ってもらえない若井さんは、ガンプラを持っていないので、自身を「アムロ」として遊びに参加していたそうです。もうこの当時からアムロの真似をしていたと・・・胸が詰まります。
親とは一切関わらない高校時代
高校は、兄と同じ「舞鶴工業高等専門学校(まいづるこうぎょうこうとうせんもんがっこう)」に入学します。
京都府舞鶴市にある、日本の国立高等専門学校です。
所在地 | 〒625-8511 京都府舞鶴市白屋234番地 |
専攻科 | 電気制御システム工学専攻建設工学コース |
略称 | 舞鶴高専 |
国公私立の別 | 国立工業高等専門学校 |
舞鶴工業高等専門学校出身の有名人
田中邦裕さん | さくらインターネット創業者 |
材木正己さん | 日東精工 代表取締役社長 |
城崎雅文さん | 宮津市長(政治家) |
森口亨さん | 京都府議会議員(京丹後市選出) |
もともと成績はあまり良くなかったという若井さん。
成績は「オール3」。それを見た兄から、バシバシにシバかれ「オール5とらなかったらお前次どうなるか、今日以上のことになると思っとけよ」と言われ、その恐怖から泣きながら勉強を頑張り「オール5」をとります。
しかし、兄と同じ高校は嫌だと母親に言いますが、他の学校に行くなら学費は出さないと言われ、同じ高校に入学しますが、勉強についていけず、退学してしまいます。
高校は、兄と同じ全寮制の学校へ入学しました。全然行きたくなかったけれど、「ほかの学校に行くなら学費は出さない」と母親に言われて。試験の成績を1番からビリまで貼りだすような学校で、僕は1年間ずっとビリやった。母と兄はぶちキレたけれど、できひんもんはできひん。それで退学し、1年遅れで公立高校へ入りなおしたのです。
入りなおした高校は「京都府立山城高等学校(きょうとふりつ やましろこうとうがっこう)」
文武両道を掲げているだけあって、部活も勉強も盛んなようです。
所在地 | 〒603-8335 京都府京都市北区大将軍坂田町29 |
設置学科 | 普通科・文理総合科 |
課程 | 全日制 |
国公私立の別 | 公立学校 |
京都府立山城高等学校出身の有名人
伊丹十三さん | 映画監督 |
河野秀数さん | 元プロ野球選手 |
釜本邦茂さん | 元サッカー選手、元参議院議員、Jリーグ元監督(ガンバ大阪、藤枝MYFC) |
山城新伍さん | 俳優 |
天山広吉さん | プロレスラー |
尾崎亜美さん | 歌手 |
再び自宅に戻りまた兄を除く(この時兄は高校の尞生活でいない)家族と生活することになった若井さんですが、そこで何かが吹っ切れたといいます。
それからは、誰に何を言われても一切関わらないように過ごしたそうです。
しかし、たまに兄が帰ってきたかと思うと「お前母親に対してこんな口の利き方したらしいな」と、やみくもに責められ、「いや、お母さんがこんなことするからだ」と説明しても、論点をすり替え若井さんを押さえつける。何も変わっていない兄に落胆したそうです。
寮ではなくなったので高校へは家から通うようになりましたが、それからはもう親とは一切かかわらなくなりましたね。母は弁当も作ってくれなかったので、つきあっていた彼女のお母さんが用意してくれた。家に帰れば自分の部屋にこもりきりで、家族の誰とも口をきかないで過ごすようになりました。
こんな日々を送りながら、「僕は絶対に結婚なんてせんとこう」と心に誓いましたね。夫婦仲が悪く、子どもがこんなにしんどい思いをして生きていかなあかんなんて、かわいそうすぎる。「子どもなんて作らんほうがましや」って。
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父親の死
無事高校を卒業した若井さんは、京都の中央卸売市場に就職をします。
市場なので朝早く、昼過ぎには仕事が終わってしまうことから「時間が勿体ないな、料理もやってみたいな」と思い、夕方から居酒屋でバイトを始めます。仕事が休みの日もレストランで働いてお金を貯め、料理の勉強もしていた若井さん。
このころもまだ実家に住んでいましたが、高校生の頃から家族と一緒に食事を摂ることはなく、高校時代バイトをしていたそのお金で、パンやおにぎりを買って、自分の部屋で食べて1人で過ごしていたそうです。父親と母親もまた不仲なままで、本当に家族がそれぞれに「家庭内別居」状態だったそうです。
そんな中、お店に買い付けに来るお客さんから「社長にならないの?」と言われたことをきっかけに真剣に考え始め、居酒屋をやろう!と決め、物件を探し始めます。しかし、この時若井さんは、22.3歳。若いという事でなかなか不動産に相手にしてもらえず、調理師免許を持っていた父親に名義だけを借り、自分のお金で京都に居酒屋をオープンさせます。ホテルの中華調理や居酒屋などで働いていた経験を活かし、若井さんの料理はお客さんに大人気で、めちゃくちゃ繁盛したそうです。
この頃は実家を出ていた若井さん。父親も若井さんの店に常連としてくるようになり、母親と仲が悪いという話をする父親に「早く離婚したら」と常々言っていたそう。
この頃、母親の攻撃の標的は、若井さんから父親に向けられていました。父親のやることなすこと母親は気に入らない。
財布も母親が握っていたので、父親は「離婚したら、お父さんは野垂れ死にや」とこぼしていたという。そんなこともあり、離婚を踏み切れないでいた父親。
そんなある日、かなり酔った状態の父親がお店に来て、母親と離婚すると若井さんに話します。
若井さんも「やっとか!これで自分も母親と兄と縁が切れる!」と思ったそうです。
「財産分与などの手続きはきちんとしないと、全部あの母親に持っていかれるよ」と話した3日後に、父親は首を吊って自殺してしまったのです。
父は我慢して我慢して、我慢ができなくなって死んだんだと思います。母との生活ですっかりうつ状態にもなっていました。ところが葬儀のとき、父方の親戚一同を前に母は「主人は心臓発作で死にました」とウソをついた。このとき、「お前をもう絶対に許さへんぞ」と思いました。このままにはしておけない。葬儀を終えてから、僕は全親戚に父が首吊り自殺であることを伝える手紙を送りました。
若井さんは堪えきれず、父親の葬儀で「お父さん殺したんはお前や!」と母親を責めましたが、母方の親族には取り合ってもらえずに絶望したそうです。遺産のことで家族ともめたくなかった若井さんは、「あなたたちとは縁を切ります」と言って自ら父親の遺産相続はすべて放棄する旨の念書を書いて、母親に渡したそうです。
父方の親戚も「きっと自殺だろう」と気づいていたらしく、「よく勇気を出して言ってくれた」と感謝されました。でも、「もうあんな母親とは縁を切ります」と言うと、「血が繋がっているのだから、そんなこと言わずにがんばりなさい」と励まされてしまった。口では「はい」と答えたものの、そんなのもう無理やと思っていました。
しかし皮肉なことに、居酒屋は父親名義のままであったため、すべて母親と兄側に渡ってしまったのです。
四十九日で集まったとき、僕は母親に「お前のせいでこんなことになったんやろ! お前が死ね」と怒鳴ったんです。そのあと、「遺産は一切放棄します」と一筆書いて母に送りつけました。するとしばらくして兄から「お前の店は父さんの名義になってるやろう」と連絡がきたんです。とにかく縁を切りたかった僕は、「そうかい、わかったよ」と、その日のうちに居酒屋を畳みました。
どこまで欲深く、ひどい母親なんだろう。なぜそんなに自分の息子を攻撃するのか、できるのか・・・。
息子が一生懸命やってきたお店を簡単に「よこせ!」となぜ言えるのか・・。
大事なお店を手放してまでも、母親と兄とは縁を切りたかった若井さん。辛かったですね。
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死に場所を探す旅へ
父が死んだことで、僕はすっかり生きているのがイヤになってしまった。手元にあった、まとまったお金を全部持ち、リュックには自殺用のロープだけを入れて東南アジアへと旅立つことにしました。死に場所を求めての旅。いい木があったらそこで首を吊ろう、それよりも先にお金がなくなったらそこで死ねばいいわ、と。こうして僕は、放浪の旅に出たのです。
途方に暮れた若井さんは、死に場所を探すために東南アジアへ旅に出ます。
半年くらいたったころ、ミャンマーのフェリーで偶然日本の方と乗り合わせました。最近日本で起きていることを聞いたら、「ダウンタウンの松本人志さんがドラマに出ていますよ」と言う。僕はダウンタウンがめちゃくちゃ好きだったのですが、ドラマには絶対出ないと著書にまで書いていたはずの松本さんが出るドラマってどんなのだろう、と。どうしても見てみたくなって、一時帰国を決意しました。(笑)
そして見たドラマは、自殺をするな、というメッセージがあったそうです。これを見た若井さんは号泣し、自殺を思いとどまり、今度は楽しい旅をするため、再び東南アジアを旅して回ります。
転がり込んだ友達の家で見たのが、ドラマ『伝説の教師』でした。松本さん演じる教師が、「人間に与えられた唯一の特権は笑うことや。眉間に皺寄せて苦しみながら死んでいきたかったら勝手にせえ。笑いながら死ぬか、笑わんと死ぬか、お前が決めたれ」というセリフがあって。僕の胸に、この言葉はグサッと突き刺さりました。と同時に、このとき芸人を目指すという道が見えてきたのです。
その途中、インド滞在中の若井さんの連絡先を突き止めた元彼女の誘いでバンコクの空港で落ち合い、帰国を促されて日本に戻り、すぐにお笑いの道を志し、NSCへと進んだのです。
若井さんの両腕の上腕部にはタトゥーが彫られているそうです。
右腕には横書きで「036」(おさむ)と自身の名前が彫られており、左腕には縦書きで「LOVE PEACE」と彫られているそう。
これは、東南アジア放浪時にタイで「愛」と「平和」、そして「自分自身」が大切だという事を悟り、その想いを忘れないために彫ったもの。
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